クリス事件

クリス事件

クリス事件とは何か

クリスさん(2018年撮影)

間違ったDNA鑑定がえん罪を生む

足利事件をご存知でしょうか。1991年に誤ったDNA鑑定によって無期懲役判決を下された菅家利和さんは、DNA再鑑定によって18年後にようやくえん罪を晴らすことができました。間違ったDNA鑑定によりえん罪が生まれることが、明らかになったのです。

この足利事件に学んだ裁判所は、警察のDNA鑑定が裁判で争われた場合、大学の法医学教室などにDNA再鑑定を命じて、警察の鑑定に間違いがないかを確認するようになりました。

クリス事件でも、警察のDNA鑑定に間違いはないかを確認するために、DNAの再鑑定が命じられました。しかし、この再鑑定に問題があったのです。クリス事件は、間違ったDNA鑑定によるえん罪という意味で、第2の足利事件と呼ぶことができます。

事件から3年4ヶ月後の逮捕

2018年7月12日0時10分ころ、千葉県市川市で駅から帰宅途中の女性が襲われました。口淫を強要した犯人は、射精して立ち去りました。

被害者はその場で精液を吐き出し、帰宅後うがいをしたのちに警察に通報しました。そのため、被害者の口腔内から採取された犯人の精子は微量で、被害者の口腔内細胞と混合したものでした。

事件から3年4か月後の2021年11月25日、クリストファー・ペインさん(母はアフリカ系アメリカ人、父はギリシャ人)が逮捕され、翌12月15日に起訴されました。クリスさんは当時30歳でした。

逮捕につながった最初のDNA鑑定

クリスさんは、事件から1年7か月後の2020年2月に、酔っ払って他人の家の玄関で寝てしまったことで、住居侵入事件で現行犯逮捕されました。その際に、任意で口腔内細胞を提出していました。千葉県警・科学捜査研究所(科捜研)が行ったDNA鑑定の結果が、千葉の事件の犯人のDNA型と矛盾しないこと、そして事件当時に事件現場付近に住んでいたことを理由として、クリスさんは逮捕、起訴されました。

しかし、クリスさんはドラマCSI(Crime Scene Investigation.邦題・科学捜査官)などで、DNA鑑定が性犯罪の決め手となることをよく知っていました。もしも過去に性犯罪をおかしていたならば、この時に任意で口腔内細胞を提出するはずがないと主張しています。

クリスさんを追い詰めたDNA再鑑定

裁判は、千葉地裁に係属しました。より正確なDNA鑑定がなされれば無実は明らかになると主張するクリスさんの強い希望により、国選弁護人は、裁判所にDNA「再」鑑定を請求しました。そこで、裁判所は職権で、神奈川歯科大学のY教授にDNA鑑定を命じました。しかしY鑑定の結果は、クリスさんと犯人のDNA型は矛盾せず、一致すると仮定した場合の確率(出現頻度)は、約17兆人に1人(地球2099個分の1)という驚異(脅威)的なものでした。

争う余地はないと考えた国選弁護人は、逮捕以来一貫して無実を主張するクリスさんを強引に説得したそうです。ついにクリスさんは諦め、2023年1月16日から、有罪を前提とした裁判員裁判が行われようとしていました。

IPJによる支援のもとに

クリスさんの支援者は、IPJに支援を申し込んでいました。そこでIPJは、国選弁護人からDNA鑑定書を入手し検討しました。すると、最初のDNA鑑定と再鑑定の対象は、微量資料であるだけでなく、犯人と被害者の混合資料でした。そこで犯人のDNA型を特定できず、決定的な有罪証拠はない、すなわちえん罪の可能性があると考えられました。

IPJメンバーの弁護士がクリスさんと接見してこれを伝えた結果、諦めずに無実を主張したいと切望していたクリスさんから、弁護人になってほしいと頼まれたのです。IPJの支援が始まりました。

IPJの弁護士による弁護は無償(プロボノ)ですが、私選弁護人です。私選弁護人が選任されると、国選弁護人は解任されます。その結果、裁判所は、裁判員裁判の期日をすべて取り消し、否認を前提とした公判前整理手続が再開されました。裁判が始まるわずか6日前のことでした。

2019年、三峰神社旅行にて支援者の皆さんと

アリバイ証拠もある!

事件当時、クリスさんは、東京都渋谷で働いていました。事件があった日に、職場から当時の交際相手に「Miss you so much(すごく会いたい)」というメッセージを送信していました。これは、事件が起きた直後の時間です。そして、クリスさんの職場と事件現場は、電車で約1時間かかります。メッセージが送信された時の位置情報を見れば、クリスさんのアリバイは明らかになります。ところが、この決定的な証拠を捜査機関は無視していました。

千葉地裁での有罪判決

裁判員裁判は、2024年6月10日から6月21日まで行われました。弁護人は、DNA鑑定は情況証拠にすぎず、アリバイ証拠に照らすと、無罪判決が下されるべきであると主張しました。

しかし、千葉地裁は2024年7月9日、Y鑑定の出現頻度によるとクリスさんが犯人であることに合理的な疑いはなく、クリスさんが犯行直後に交際相手に「Miss you so much」とメッセージを送信することもあり得ると判断して、懲役8年の有罪判決を下しました。

欧米では、DNA鑑定は情況証拠にすぎず、DNA鑑定以外の証拠で無実の可能性がある場合には、DNA鑑定のみで有罪としてはならないと説かれています。1審判決は、DNA鑑定の意味を正しく理解しない、明らかな誤判というほかありません。

弁護人は直ちに控訴を提起し、事件は現在、東京高裁第4刑事部(家令和典裁判長)に係属中です。控訴後、クリス事件は、新たな展開を迎えました。

クリス事件の新展開 DNA鑑定のデータ改ざん

弁護人は1審で、Y鑑定の型判定自体は正しいことを前提に、DNA鑑定の対象が混合資料の場合は、犯人のDNA型は特定できないこと、したがって「一致する」ことを仮定した出現頻度を過度に重視することは許されず、無罪証拠に目を凝らすべきであると主張していました。

 ところが控訴後、アメリカのDNA鑑定の専門家であるSimon Ford博士(Lexigen Science & Law、San Francisco)から、DNA鑑定の元となる生データの開示の重要性、さらにDNA鑑定の基礎データであるエレクトロフェログラム(elecropherogram)(以下、「EPG」といいます)は、検査者によって編集が可能なものであることを教えられたのです。

早速、1審で開示されたY鑑定のEPGを検討したところ、Y鑑定のEPGには編集した形跡が認められました。さらに、鑑定書が作成されたのちに、EPGが印刷されていたことが判明しました。そこで、Y鑑定の生データとオリジナルのEPGの開示を求めたところ、2025年2月13日、Y教授から鑑定の生データとオリジナルのEPGが開示されたのです。

Ford博士に生データから編集されていないEPGを作成してもらい、オリジナルのEPGも検討した結果、Y教授は、EPGに犯人のDNA型ではないクリスさんのDNA型を複数「加筆」し、クリスさんのDNA型と異なる犯人のDNA型を「削除」して、犯人とクリスさんのDNA型が「矛盾しない」ようにデータを改ざんした可能性が浮上したのです。

第2の足利事件

足利事件の苦い経験を経て、現在の刑事裁判は、警察のDNA鑑定が争われた場合は、警察機関以外にDNA鑑定を行わせ、間違いのないようにしようとしています。しかし、DNA鑑定のEPGは検査者によって編集可能です。もしも編集された可能性があるならば、DNA鑑定の生データの開示を求めて、編集されないEPGを作成することが重要性であり、必要です。ところが、日本の法律家は、裁判官や検察官を含め、このことを知らないままだったのです。間違ったDNA鑑定によるえん罪をどう防げばいいのでしょうか。日本がこの点で、欧米の水準に達していないことは明らかです。

クリス事件は、DNA鑑定によるえん罪、そして科学と刑事裁判について、改めて考え直す機会を与えてくれたという意味でも、第2の足利事件ということができるでしょう。

人質司法のもとで3年半以上の勾留

クリスさんの無実の訴えに謙虚に耳を傾けず、3年半以上もクリスさんの勾留を続けていることは、日本の刑事司法が「人質司法」であることを証明しています。この点でも、国際的な非難を免れません。

東京高裁は、検察官に対し、Y鑑定の再吟味を求めていますが、その答えは、未だ示されていません。

検察官も、クリスさんが犯人ではないことにやがて気付くに違いありません。

日本の刑事司法が深刻に問われているのがクリス事件です。どうか注目して頂きたいと思います。 

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