【人質司法】「自殺したいと真剣に思うようになりました」 高津光希氏のストーリー

建設業の高津光希氏(仮名)。長女が生まれてちょうど1カ月、そして夫婦が知り合って1年という、喜びが重なる記念日の夜に悲劇は起きました。2017年1月13日、家族3人ではじめて一緒に外出をして祝った夜、ベビーベッドで寝ていた娘が意識を失ってしまったのです。病院に搬送された娘は、そのまま意識が戻ることなく、約2か月後の3月22日に息を引き取りました。

高津氏は、それが「地獄の始まり」だったと話します。娘の葬儀を終えた直後、まだ納骨すら終えていない時から突然始まった警察の家宅捜索。その後も長時間にわたる警察の取調べが続き、同年10月、長女が死亡した責任を問われ、ついに逮捕されてしまいました。長女を揺さぶり頭に大けがを負わせて死亡させたとして、傷害致死罪に問われたのです。そして公判直前の2019年11月に保釈されるまで2年以上、無実の罪で未決勾留されました。保釈から2年後の2021年5月、東京高裁はようやく無罪を言い渡し、その判決は確定しました。

高津氏は、警察での取調べの様子をこう語ります。
「警察に任意同行されての取調べでは、朝5時ぐらいに警察署に入り、夜7時ぐらいまで取調べが続き、なかなか帰宅させてもらえませんでした。赤ちゃんを揺さぶった、と言えば今日帰っていいからというようなことでした。そこで、不本意ながら警察の意向に添った上申書を書いてしまいました。そうしたら家に帰してもらえました。赤ちゃんをあやしていたことはあると言ったのですが、それを揺さぶったような言い方に変換されてしまいました。それが自白の強要なのかなと思います。」

2年以上の未決勾留は、高津氏の人生から希望を奪っていきました。

弁護士の立ち合いがない取調べでは、自白の強要が続きます。
「警察での取調べでは、バカにするような発言がすごく多くて。よく覚えているのは、交通事故にたとえてくるんですよ。この揺さぶりの事件っていうのは、交通事故で言えばね、君が車を後ろから前の止まっている車にぶつけて、やってないって言ってるのと一緒だからとか言って。それぐらい、もう分かりきったことを君は否定してるんだよ、もう逃げ場なんかないんだよ、みたいな感じで言ってきました。だから別に、素直にやったって言えば、ほんとすぐだから、って。」

また、「接見等禁止決定」により、逮捕後は(弁護士以外誰とも)面会も出来ない、手紙も出せないという中で、周りがどうなったかも分からないままでした。そうした中で、高津氏に妻からの離婚届がいきなり突きつけられました。「初めて自分に負けたなと思いました。自殺したいと真剣に思うようになりました。」と振り返ります。

「長いっていう言葉じゃ言い表せないぐらい長くて。結局、人としての扱いがほぼ受け入れないところにいて、何の楽しみもなくて。朝7時に起きたら、朝昼晩、よくわからないおいしくないご飯を食べさせられて、それ以外のときは座ってなきゃいけない。結局、裁判まで、生かさず殺さずするやり方なんだなあと感じました。とりあえず生きて呼吸だけして、そしたらお前ら裁判所に連れていくから、みたいな。」

高津氏は、屈服しないという強い決心により2年以上の勾留を乗り越えました。しかし保釈された後も苦悩は続きます。
「保釈後最初の1ヵ月は、もう怖くて一切人と会いませんでした。他の人はもしかして、自分のことを報道で見て知っているのではないか、とか。1人でコンビニに買い物に行くのすら怖くて、ずっと家から出ませんでした。」

2020年2月、東京地裁は「揺さぶりの暴行を加えたとは認定できない」とし無罪(求刑懲役8年)の判決を言い渡しました。更に2021年5月、東京高裁も地裁の判決を支持し、無罪が確定しました。

高津氏は、自分が冤罪および人質司法の最後の犠牲者になることを望んでいます。そのために、亡くなった娘への想いを胸に、自らの経験を世の中に伝える活動を続けています。本プロジェクトも、高津氏のような冤罪事件をなくすため、日本政府と社会への働きかけを続けていきます。