【コラム】袴田事件:自白こそが最初の、そして最大の「証拠偽造」だった

*月刊『さなるこ新聞』(2023年5月)より許可を得て転載したものです。


 袴田巌さんの再審開始が決まった。死刑確定囚の再審開始は1989年の島田事件以来、なんと33年ぶりの「快挙」である。しかし、ここで「快挙」と書いて、はて、そうだろうかと、あらためて思ってしまう。たしかに袴田さんを支えつづけた弁護団、救援会、そして弟を信じて再審請求の闘いを推し進めてきた袴田ひで子さんの働きを思えば、まさに「快挙」そのものと言っていい。しかし、この快挙を阻みつづけてきた裁判所の頑迷を考えれば、「快挙」などと言って喜んではいられないという思いが募る。そもそも1968年9月11日の第一審判決の段階で無罪となって確定すべきものではなかったか。あらためてそう思う。

 この事件では、第一審裁判の最中、事件発生から1年2カ月後の1967年8月31日に、味噌樽から発見された血染めの「五点の衣類」が袴田さんの物だと認定され、これが袴田さんの有罪を決定づける証拠とされていた。しかし、再審請求の過程で新たに開示されたその写真を見れば、その付着血液の赤味がはっきりと残っていて、味噌樽に1年以上も漬けられていたものとは思えない。この衣類そのものが何者かの「証拠偽造」ではないかと弁護団は主張し、今回の東京高裁の決定はこれを認めて、再審開始を確定させたのである。

 結果として、マスコミ報道でも、この裁判の最大の争点であったこの「証拠偽造」を東京高裁が明確に認めたことが大きく報じられた。しかし、長年、この裁判に関わり、袴田さんの自白を心理学の観点から分析してきた私の目には、この報じられ方には違和感が付きまとう。たしかに「五点の衣類」は何者かによる「証拠偽造」である。私自身もそう考えてきた。そして、そのことを認めて再審開始が決定されたのは当然のことである。しかし、「証拠偽造」というのならば、捜査官たちが袴田さんを取り囲み、彼の口から搾り取った自白こそが、最初の、そして最大の「証拠偽造」ではなかったか。

 袴田さんは一家四人殺しのこの大事件で犯人ではないかと疑われて、事件から49日後に逮捕されて19日間、否認を繰り返して、しかし、袴田さんを犯人だと決め打った取調べが延々とつづくなか、20日目に犯行のすべてを認めて自白し、そこから計45通の自白調書が取られている。そして、第一審判決ではこの45通のうち1通の検面調書(検察官が録取した供述調書)のみが「証拠」として採用されて、これが死刑判決につながったのである(拙著『自白の心理学』岩波新書、2001年、『袴田事件の謎』岩波書店、2020年)。

 我が国の刑事訴訟法198条には「➀検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は拘留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。②前項の取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げなければならない。」とある。この②に記されているのは、いわゆる黙秘権あるいは供述拒否権である。これを見れば、一見、この取調べで無実の人が虚偽の自白に落ちることはあるまいと思えてしまう。しかし、それはわが国の刑事取調べの実態を知らない者の錯覚にすぎない。

 注目すべきは、この198条の第一項に「但し、被疑者は、逮捕又は拘留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる」との条文である。検察官や警察官は被疑者を取り調べることができるのは当然として、一方で被疑者はその「出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる」としながら、そこに「逮捕又は拘留されている場合を除いては」との例外規定が設けられている。そのために被疑者が逮捕され、あるいは勾留されて、身柄を押さえられていれば、取調べそのものを拒否できないことになる。これを法実務では「取調べ受忍義務」などと呼ぶ人もいる。

 袴田さんは逮捕後、勾留、勾留延長の手続きで身柄を拘束されたまま、連日、一日平均12時間以上の取調べを受けて、20日目に自白に落ち、そこから3日間、文字通り日替わりで犯行自白を変転させ、最後に9月9日付検察官調書を取られて、起訴されている。その否認段階の取調べ時間だけでも、総計すると216時間に及ぶ。その間、取調官たちは袴田さんの否認の主張に耳を傾けようともせず、「おまえ以外に犯人はいない」と言って責めつづけ、袴田さんはいくら抗弁しても聞いてもらえない絶望のなかで、最後には疲弊しきって自白に落ちたのである。

 じつは、再審請求のなかで、袴田さんの取調べの一部を収録した録音テープの存在が明らかになって、2015年に開示され、私はそれを分析する機会を得た。そうして袴田さんの取調べ過程を精査してみれば、それは文字通り無実の袴田さんが自らをこの事件の犯人になっていく虚偽自白過程であった。予測していたこととは言え、それはあまりに露骨で酷いもので、その自白こそはこの事件の最初の、そして最大の「証拠偽造」だったのである。

 高野隆氏の近著『人質司法』(角川新書、2021年)によれば、黙秘権が実質的に保証されている欧米では、「取調べは、ほとんどの場合1時間以内、通常は20~30分です。複数回行われることは極めて稀です」と言う。これに照らして見れば、袴田さんに対する取調べはおよそ法外である。一方で黙秘権があると言いながら、わが国では他方に取調べ受忍義務があって、この非常識な取調べにも被疑者は耐えなければならないとされているのである。

 同じく高野氏の近著には、この取調べ受忍義務が合法であるとする1999年の最高裁大法廷の判例が紹介されている。それによれば「身体の拘束を受けている被疑者に取調べのために出頭し、滞留する義務があると解することが、直ちに被疑者からその意思に反して供述することを拒否する自由を奪うことを意味するものでないことは明らかである」と言う。

 何という法治国家であろうか。袴田さんの再審が開かれるに当たって、「五点の衣類」の証拠偽造はもちろん、袴田さんの自白もまた証拠偽造の結果でしかなかったことを暴いてもらわなければと、私は思っている。

浜田 寿美男(はまだ・すみお)