【コラム】心理学者の視点

 皆さんは心理学にどのようなイメージを持っているだろうか?
 いきなり被害妄想的な話で申し訳ないのだが,心理学という学問の考え方や研究手法に対する誤解に,もどかしさを感じることがある。具体的には,巷に溢れる怪しげな「心理テストのようなもの」を使って人の心を分析している学問だと思われていたり,非科学的という理解をされていたりすることである。本屋によっては占い本と同じ棚に心理学書が並べられていたりもする。ちょっと悲しい。
 もちろん,これらは誤解の中でも極端なものだし,ただの愚痴だ。しかし,誤解を耳にするたびに,ちょっとした不安を覚えることもある。心理学という学問に対する一般の人の認識は,心理学の学問としての立場のみならず,イノセンス・プロジェクトが関わる刑事裁判にも重大な影響を与える可能性があるからだ。なぜなら,裁判に協力する心理学者の証言,鑑定書などは,裁判官・裁判員・弁護人・検察官などの意思決定者に,この認識という眼鏡越しにその妥当性や信用性が吟味されることになるからだ。つまり,心理学という学問に対してその人がどのような認識を持っているかが,心理学者の提出する鑑定書の評価や理解を左右する可能性もあるのではないかと(勝手に)心配しているのだ。
 そこで本稿では,「心理学,興味はあるけどよくは知らない」という方向けに,心理学者が「人の心」をどのように理解しようとしているか簡単に紹介したい。そのうえで,裁判で心理学にはどんな使い道があるか考えてみる。そうすることで,少しでも心理学者の視点を共有できれば幸いである。

科学としての心理学

 さっそくだが,心理学とはどんな学問か。入門の教科書をめくってみると,こんな定義が書いてある。「人間の行動と精神過程の科学的理解とそこから得られた知識の応用を目的とした実証科学」(厳島, 1999)。なるほど,心理学は科学なのだ。わざわざ2回繰り返すくらいなのだから大事なポイントに違いない。

 では,科学とは何だろうか? 数学や化学,物理学がなんとなく科学なのはわかるけども,科学の定義や条件を考えたことはない,という人も多いのではないだろうか。実は,ある研究が科学として成立するには3つ条件がある。1)実証性,2)再現性,3)客観性である(組み合わせは諸説あり)。念の為,簡単に説明する。1)実証性とは,ある仮説が実験などによって検証できるか,ということ。2)再現性とは,ある実験を同じ条件でやれば,私がやっても皆さんがやっても同じ結果が得られるか,ということ。最後に,3)客観性とは,得られた結果が客観的に認められるか,ということである。これら1つでも欠ければ研究の科学性は保証されない。たとえば,ある科学者が「タイムマシンを作って未来に行ってきた」と言い張ったとしよう。しかし,タイムマシンの作成方法を公開しなかったり,言われた通りに作っても未来に行けなかったり(再現性の欠如),なぜかその科学者と同じグループの人たちだけが,作ったタイムマシンで未来に行ってきたと主張している(客観性の欠如),ということであれば,科学の条件は満たしていない。

 さて,次はこの3つの条件をどうやって満たすかである。その手段の一つが,世に出回っている科学論文というやつである。見たことがない人は,料理のレシピを思い浮かべて欲しい。たとえば,「めちゃめちゃ美味しいパンケーキのレシピ」がネットで公開されていたとする。理論上,そこに書いてある通りに作れば「めちゃめちゃ美味しいパンケーキ」が作れるはずだ。だが,レシピに書いてある通りに作ったのに,不味いものが出来上がったら皆さんはどうするだろうか? 私なら「このレシピで二度と作らんわ!」となる。再現性がないレシピだからだ。科学論文もこれと同じように機能する。論文(レシピ)の通りに実験しても同じことが再現されなければ,「その結果はたまたまだったのでは?」となり,他の科学者が試してみてもやっぱり再現できなければ,やがてその学説は自然淘汰されていく。したがって,何百年も何千何万という科学者の精査に耐え,淘汰されずに義務教育の教科書に載っているような科学理論はすごいのだ。

 何が言いたいかというと,心理学も化学や物理と同じく科学の条件を満たし,科学の厳しいお作法の中で「人の心」について研究しているということである。個人的に,科学の良いところは,上記の条件を満たすことで,科学は己が間違っている可能性を常に検証できるようにしていることだと思う。心理学は科学だから正しいとか主張したいわけではない。「人の心」を理解しようとする試みに,心理学は科学という,おそらく人類が今のところ思いついた中では(たぶん)最も信頼性のある方法を採用して研究している,ということである。

見えないものを科学的に理解する

 心理学が相手にしている「人の心」の難しいところは,目には見えないということである。目に見えないものを,どうやって科学的に実証すれば良いのだろうか。残念ながら,「人の心」は目に見えないので,それそのものを計測することはできない。しかし,「人の行動」は目にみえる。そこで心理学では,人の行動にはその人の心の動きが反映されていると仮定し,「人の行動」を計量的に計ることで,心の中で何が起きているかを推測する。ここでいう行動には,数値化が可能な,ある画像を見せた時の反応時間や質問への回答などが含まれる。

 今,数値化と書いたが,心理学の研究では行動の数値化を行い,複数の調査対象者から得られたデータを統計分析にかけることが欠かせない。まれに「えっ,心理学って数字を使うんですか?!」と驚かれたりするが,客観性を維持するという意味でも数値化は必要不可欠である。このため,心理学科の1年生は入学早々,統計分析の授業を必修で課されて「こんなの聞いていない」という顔をしている。

 話が逸れたが,簡単な例を使って考えてみたい。たとえば,皆さんが「どのような広告が好まれるのか実験的に調べたい」と思ったとしよう。実験参加者を集めて様々な広告を見せ,それぞれの広告をどれくらい長く見ていたか,注視時間を測ってみたとする。仮に,「特定の広告の注視時間が長い」=「その広告が気になる・好き」だと仮定できるとすれば,注視時間が長かった広告を集め,そこに共通するものが何かを絞れば,人はどんな広告が好きかわかるかもしれない。つまり,広告を見ることによって生じたであろう人の心の動き(その広告が気になる/好き)を,注視時間という目にみえる行動から推測し,そこから人はどんな広告が好きかを検討するのである。

 ただし,ここで重要なのは,何を目にみえる行動として測るか,である。お気づきだと思うが,「注視時間が長い」=「その広告が気になる・好き」というロジックの妥当性は慎重に検討する必要がある。なぜなら,長く見ているから好きとは限らないし,その広告が嫌いな人ほど注視時間が長いことだってあり得るからだ。つまり,何を測るかを間違えると,そして測り方を間違えれば,間違って人の心を推測することになる。このため,心理学者は何を目にみえる行動として測るか,そして,それをどうやって計量化するか,いつも気を遣っている。繰り返しになるが,「人の心」は目には見えないので推測するしかない。その推測の精度を上げるためにも,心理学者は日々さまざまな研究手法を考案し,検証を行なっている。

裁判でどう心理学を使うか

 ここまで見てきたように,心理学は科学の条件を満たすためにも,計量可能な方法で研究する必要がある。これに加えて,心理学者の多くは,多数の人からデータを集めることによって個人差を相殺し,「人というのは一般的に〇〇である」などというように,「人間一般」について言えることを検討している。言い換えれば,単一事象や特定個人から一般法則を見出すことはできないので,なにか一つの事象や個人だけを検討することはあまりない(もちろん単一事例や症例の研究をしている心理学者もいるが)。

 ここで,裁判に協力を求められる心理学者がよく検討を依頼される事象を考えてみよう。よく問題になるのは,ある出来事を経験した目撃者の供述や被疑者の自白など,特定個人の供述である。そして,その出来事に関する個人の供述が信用に足るのか,などの検討を求められる。このたった一人の個人の経験を,心理学者はどう評価すれば良いだろうか。

 たとえば,夜に200メートル離れたところの犯人を目撃したAという人物がいて,警察の被疑者が犯人に間違いないと言っているとしよう。この供述(厳密には,目撃者の記憶)の信用性を評価するために,実験することはできる。たくさん実験参加者を集めて同じ状況を再現し,同じような供述が得られるか試せば良い。もし,同じ状況で多くの人がAと同じ供述ができれば,同様の状況でも多くの人は同じような供述が可能なので不自然ではないという意味で,Aの供述は信用できるかもしれない。反対に,ほとんどの人に同じ供述ができなければ,Aの供述は人の一般的な能力を考慮すれば何か特異である,すなわち不自然であるということになろう(そして警察の誘導など外部の影響を受けた可能性が指摘される)。

 統計分析の説明は省くが,少なくとも科学者には,上記のような実験で統計学的にAの供述が特異なものであることを示せば,そのような供述は一般的にはまず不可能であると大体納得してもらえるだろう。しかし,裁判の場合,この結果を解釈するのは裁判官である。心理学者が「Aと同じ供述をすることは統計学的にまず不可能だ」と論じても,「Aという人物がたまたま特別だった可能性がある」などと断じることも彼らには可能だ。実際,飯塚事件の目撃供述を検討した心理学鑑定実験に対して裁判所は,実験参加者は事件の当該目撃者とは違うことを理由として,鑑定書の証拠価値を認めなかった(福岡地決平成26年3月31日LEX/DB文献番号25503208)。この裁判所が満足する実験条件を満たすには,当該目撃者のクローン人間でも多数用意する他ない。科学的な実験結果を正しく理解してもらうためには,心理学の方法論,統計学的な分析の意味について,裁判所には理解してもらう必要もあるのだろう。

 話を元に戻すが,裁判所がどう判断するかは別として,同じ状況を再現することができれば,上記のような目撃供述に関しては計量的に実験したうえで評価することがある程度可能だ。だが,虚偽自白はどうだろうか。虚偽自白が疑われる場合,その自白内容が本人の経験に基づくものなのかどうかが検討される。これには実験による量的な検討は行えない。では,一人の自白を科学の土俵の上で,どのように分析すれば良いのだろうか? これまで複数の心理学者が苦労して方法を考案,分析し,鑑定書が裁判所にも提出されてきたが,確立された方法は残念ながらまだない。

 裁判の文脈の中で心理学とその方法論をどう使うか,その使い道は少なくないが,当然限界はある。それに,飯塚事件の心理学鑑定実験のように,心理学が科学として妥当な分析を裁判所に提出したとしても,結果を正確に理解してもらえなければ,その貢献範囲は限られることになる。少なくとも,心理学者が科学的知見を提示するだけでは十分ではなく,正しく理解してもらえるために必要な情報も同時に提示する必要があるのだろう。裁判に関わる心理学者も増えた。心理学が今後も司法に貢献していくためには,その素地として,心理学者の視点をいかに他者と共有していていくかも考えねばならないと思っている。

引用文献
厳島行雄 (1999). 心理学とはなにか 厳島 行雄・羽生 和紀 (編) ベーシック心理学 (p.7) 啓明出版

福島 由衣(ふくしま・ゆい/早稲田大学人間科学学術院助教)